北山精神文化研究所主催 北山 Webinar(2022-23 年度)
「臨床言語論入門〜意味としての心」 ご案内
日時 | 2022年9月5日、10月3日、11月7日、12月5日、2023年1月9日、2月6日、3月6日、4月10日、5月1日、6月5日、7月3日、7月31日 |
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場所 | オンライン(定員:約250名) |
対象 | 原則として臨床の専門家か対人援助職に限ります |
タイムテーブル | 2022 年 9 月 5 日から約一年間かけて、原則毎月第一月曜日に、12 回のライブ配信で夜 8 時から 1 時間半開講いたします。欠席や途中参加の場合は、終了した講義を音声記録やレジュメで振り返っていただけます。さらに動画記録は、冬春夏のお休み期間中に期間限定で視聴していただけます。 ① 2022 年 9 月 5 日 「気付き」の物語:その起承転結(指定:飯島みどり) ② 10 月3日 心身両義性を学ぶ:言葉の身体性とその脱身体化(討論:笠井さつき) ③ 11 月7日 「通じる/通じない」:言語の錯覚と幻滅(討論:西村佐彩子) ④ 12 月 5 日 時間をかける:「いること」を抱えること(討論:工藤晋平) ⑤ 2023 年1月 9 日(第2月曜祝日) 無意味を味わう:脱錯覚と「はかなさ」の美(討論:岡田暁宜) ⑥ 2月6日 生々しいことを言葉にする〜タブーを超えて〜(討論:石川与志也) ⑦ 3月6日 世界の多義性を食べて味わう小説『鮨』(討論:国文学者・橋本雅之) ⑧ 4月 10 日(第2月曜) 「わたし」〜三点観測と総合性〜(討論:鈴木菜実子) ⑨ 5月1日 症例提示:「言語化の病理として上滑りの空虚」(討論:荻本快) ⑩ 6月5日 中立の両面性と中間性〜のらりくらりとわたす〜(討論:岡村斉恵) ⑪ 7月3日 「父の名」の機能:自分の言葉で語るということ(ゲスト講師:小林芳樹 討論:北山) ⑫ 7月 31 日(7月第5月曜) 総括〜二者言語の専門家として〜(討論:西見奈子) また本年度受講生である間、希望者には、追加料金で 2020-21 年度の「劇的精神分析入門」、21-22 年度の「三角関係を生きる」の音声データをアーカイブ聴講していただけます。 |
参加費 | 過去の受講生には、12 回分受講料として 12000 円いただきます。 新規申込者は、登録費2000 円と受講料の合計 14000 円を一括してお支払い頂きます。また 20-21 年度 9 回と 21-22 年度 13 回の音声データ(2 年分)に関して、アーカイブ聴講をご希望の場合はその旨追記して下さい。追加料金 2000 円を納入されると、本年度受講生である間、アーカイブ聴講して頂けます。 |
申込方法 | 下記連絡先メールアドレスに、 参加資格 お申し込みが承認されたなら、講義計画の最新版を添付し参加料の振込先をお伝えしますので、ご確認の上ご入金下さい。入金を確認できたなら、事務局から参加のための「ご注意」の文書をお送りし、講義の約一週前に受講の招待メールを送信します。 |
申込締め切り | 8月20日 |
お問い合わせ連絡先 | webinar@okitayama.com(Webinar 事務局 田村) |
「日本心理臨床学会 学会賞 お祝い会」から頂いた寄付を元に、日本語臨床研究会の趣旨「心について日本の文化、日本語、歴史から学ぶ」を受け継いで、2019 年にスタートしたオンラインセミナーです。
インターネットのビデオ会議サービス「Zoom」による「Webinar」を使い、原則的に北山修がパソコンやスマホの画面上でホスト(主宰)として司会し、そしてライブの講義(約 45 分)を担当します。受講者は、質問やコメントができますし、ご自宅でテレビのように受講していただけます。2022 年-23 年の「臨床言語論入門」全 12 回は本年9月から月一回のペースで開始しますが、欠席者や途中参加の方々は終了した講義を、後に音声データや期間限定の動画で視聴していただけます。
テーマ説明:フロイトの比喩で言うなら、「抑圧されたもの」とは、「内なる外国に他ならない」
のです。この「内なる外国人」は母国語でもうまく喋れないものであり、私たちが理解するためにも「内なる外国語」の通訳や翻訳が必要になります。また、段階論で言うなら、言葉が出来事をそのまま意味していたところから、意味されたものの不在や裏切りによる、意味との「つながり」の喪失こそ言霊(ことだま)の幻滅です。さらには、明確化を目指す言語が、直線的論理、そして分類(分かる=分ける)を通して、意識的な心から曖昧さや荒唐無稽などを「外国のもの」として排除していくのです。対して、詩的表現や非言語的な表現活動は、排除されたものや抑圧された「外国人」の入国を求める主張や反抗となりえますが、その通関には感染症の持ち込みの恐怖や不安が伴うものです。そして、構造から排除される狂いや意味を混乱させる事態については、私たちは言葉の痛切な限界に直面せねばならないのです。それで今回は、実践的学習に向け希望と期待を引き受けながら、言葉の使用には意味が「通じない」「分からない」が伴うものであり、不明、無意味、歪み、偏り、誤解の「空しさ」や難しさを何度も噛み締めねばならないものとして提示します。言葉のない臨床はありえませんので、その意味で私の作詞家として分析的治療者としての総合の企てとなることでしょう。